「見ず知らずの40男のエッセイなんて読みたくない」

は、ごもっともです。書いてる人もなぜ書いてるのか今一つ分かってない。全然、分かってないといっても過言じゃない。「受け狙い」なのかもしれない。

中学生ならともかく、時間とエネルギーが限られた40男は「受け狙い」だけじゃもたない。ないわけでは、ない。

ともかく「なぜ書くのか」と「なぜ読みたくないのか」。この二つは面白そうなテーマだから考えてみよう。「見ず知らずの40男!」という声をエネルギーに変えて。

まず、なぜ書くか。いわゆる「お金のため」という理由か。このエッセイはお金になるのか。見ての通りこのサイトには広告がない。つまり、人を集めても1円にもならない。むしろ、サーバー費用が毎月かかってマイナスだ。

「広告がない」ということを売りにしてゆくゆく、あとあと話題になってからなんらかの方法で稼ぐのか。話題にならなかったらどうする。なりそうもない。どっちでもいい。静かに書いていこう。

自己実現か。たくさんの人に読んでもらって喜んでもらいたいのか。「喜んでもらいたい」って、誰が読むのか。マーケティングをどれだけしたって、分からない。どれだけ考えても妄想なのでは。妄想では書く気ならない。「喜ばせてよ」と目の前で腕を組んで迫られても困るが。

それはそうと「自己実現」ってなんだ? 生まれた瞬間に宇宙で唯一無二だと思うけどな。余計なお世話はしない方がいい。世界に自分一人しかいなかったら、それ、目指さないと思いますよ。なるようにしかならない。

ボランティア精神か。なにを奉仕しているのか。読んで価値のあるテーマか。そんなたいそうなコト書けるのか。書く気もない。なんでもありか。タダだからって、なにを書いてもいいワケじゃない。

そういう人、だからか。全然、自然ではない。「自然体です」という不自然だけど、シンドイのは不自然すぎるか。現にこのエッセイを書くのに数日かかっている。でも、こうして書いているのだから「当たらずも遠からず」かもしれない。

とりあえず、答えに近いのが本業の「雑用屋てんだう」のパンフレット代わりに書いているということかもしれない。「雑用屋てんだう」は、忙しい人の日常のお世話をする仕事です。

こういう家事サービス業は、頼む相手がどういう人か知ってもらわないと、お客さんは怖くて仕事を頼めない。だから、参考資料としてこのブログを書いています。ま、読んで敬遠する人が続出しそうな気もしますけど。

それじゃ、サイト自体が広告じゃんか。これが儲からない仕事。どんだけ頑張っても、月に15万もいかない。儲けより面白そうだから始めた仕事なので仕方ないけど。広告には違いない。でも、ここまで苦労することはない。逆効果かもしれない。

「なぜ書くか?」。うーん、分かりません。ま、いいか。「分からん」を保留できる成熟した大人になりましょう。

つぎに、なぜ読みたくないのか。「見ず知らずの」というのがポイントみたいだ。有名人だから読むのか。近所のオバちゃんだっていいではないか。内容の「面白さ」ではなさそうだ。なんか途端に興味がなくなってくる。

「有名人のエッセイを読みたい」が見ず知らずの40男のエッセイを読みたくないというご意見の「答え」になりそうだ。なにを知りたいのだろう。〇〇さんの毎朝の習慣とか知ってどうするんだろう。〇〇を近所のオッサンに変えたらどうなる。

近所のオッサンの方がよっぽど素敵かもしれない。

読みたくなければ読まなければいい。「読みたくない」って、誰に向かってどうして欲しいリアクションなんだ? 読みたいものだけを読めばいい。もっと自由に読んだり読まなかったりすればいい。「読書感想文」のイヤな思い出が諸悪の根源か。

見ず知らずの人の、見ず知らずの人のエッセイを読みたくない理由を、見ず知らずのオッサンが考えるのはこれぐらいにしよう。「見ず知らずの40男のエッセイを最後まで読んでしまった」という声が聞けたらありがたいです。

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