という法律はないが、取り壊すまでは保存してた方がいいかもしれない。そこはまさに「家族ミュージアム」だから。
いま座っている学習机。ボクが高校まで使っていた。いまは母親の寝室にある。母親がエアコンのある1階に移住したから誰も使っていない。ボクが使っていた痕跡は何も残っていない。
家計簿など、ほとんど母親のモノだが、文房具を見ると鉛筆削りはボクが使っていたモノだ。見覚えのあるボールペンもある。なぜココにあるのか分からない父親の小説とか、ゲームの攻略本もある。
ゲームの攻略本は兄貴が一時期、この机使っていたのかもしれないし、父親の小説は母親が気まぐれで見つけて読んだのかもしれない。でも、読むかなあ。ボクが読んだ記憶があるから、読んでほったらかしてあったのを拾って、空いてた場所にしまっただけかもしれない。
20年以上前のイベントのマスコット人形がホコリをかぶっている。マスコット人形を見て触ってなつかしんでいる母親の姿を想像できないが、とにかく、4体もいる。弟のイベントで買った人形もある。ちょっとした人形館。いずれもホコリをかぶって景色と化している。
机を使っていたのは一部分で、あとはいじった形跡がない。そこに新しいモノが次から次と加わっていく。これはつまり、実家の構造そのものじゃないか。
机の隣のタンス。使ってない引き出しの中は時間が止まっている。小学校のときのサイフを見つける。なつかしすぎる。「あ、漱石が入ってる」。お年玉だと思うけど、どうしたものか。
実家に帰ってきたとき、持ってきた衣類を時間が止まったタンスに入れる。特に整理することもなく衣類を詰め込んでいく。使わない服は空いてる引き出しの中に入れていく。パッと見は分からないが、実家の構造に新しい「層」が生まれた瞬間だ。
過去の上に毎日がひたすら積み重なっていく。これが実家の荷物の構造。家族の歴史が埋もれているのだ。そんな忙しくないのに、なんで片付けないのだろう。捨てなくてもいいけど、現場保存することもない。
よく見ると、ダンボールに入れて整理されたモノと、まとめて載っけただけモノ、その場しのぎに置いたモノに分けられそうだ。
きっちり分かれていれば秩序のようなものがあるが、ダンボールの中のモノを取り出したり、まとめたモノの真ん中のモノだけ欲しかったり、そのつど、動かして、戻すときはとりあえず「形だけ整える」をくり返すとこんな複雑な層が生まれるのか。
層を掘れば掘るほど、家族の時間がさかのぼる。20年、ボクは実家にいなかった。その時間の家族層にボクの形跡がない。兄と弟の衝動買いしたオモチャが、20年の家族層に埋まっている。ボクの形跡は、小学校のときUFOキャッチャーで取ったオモチャに出会う。
中学とか高校の形跡はどうしたんだろう。ボクが使っていた部屋は弟が使ってるし、そういえば、引っ越すときにいろいろ捨てた気がする。「ない」ということも、一つの「層」だ。
現場保存した方が、あとあとリアリティがあって面白い。と考えてそうしてるワケではあるまい。「家」は自分の一部なのかもしれない。「モノ」には記憶がある。「毎日」は留まるところ知らずにすすむ。片付ける時間がもったいない。
そうか。片付けないのは、全部、いるモノだったのか。
これは生活の場とつながっている部屋の話。物置と化した部屋はどうか。部屋の中を見たいが、開かずの窓でホコリがスゴい。足の踏み場もなく、部屋に入ろうと思えない。
動かしちゃイケない「時間の結界」のようなものを感じる。
家族の歴史として純度は高いけど、ほとんど使わなくなった「がらくた置き場」。家族の歴史としては、共有度があまりないから、価値がないかもしれない。
倉庫の中のモノはどうか。例えば、ボクが引っ越してきたときに部屋に入らないモノを入れたら、それはそれで家族の歴史だけど、年数といいい、濃さといい、理由といい、ほとんど他人のモノと変わらない。
うーん、赤の他人から見たら実家のモノはゴミか。実家はゴミ屋敷か。片付けにきた便利屋に、ゴミ屋敷と実家のモノの違いを説明するにはどうする? 休憩中にお茶を飲みながら、イベントの人形を手に取って思い出話をすればいい。それだけじゃ、やっかいなゴミか。
つまり、実家にあふれるモノを探索するのは、家族にしか分からない、あなたにしか味わえないとっておきの娯楽ツアーに、感動のイベントになるということ。
そう考えると実家のモノが増えていくのは、あとあと楽しむ種をまいているといえるし、なにより、家族の生活の歴史が積み重なっていく、ありがたい瞬間に立ち会っているといえる。